告白

告白

 ある未来が読者に早い内から知らされる。そして主人公の熊太郎がどうしてそれを行ってしまうのかが描かれている。
 文章全体も方言のテンポの良さに楽しさが加味されていて読みやすく、とても面白かった。
 (9・18上記の文を大幅修正)
 


 以下ではこの作品の内容を述べて感想を書いてます。ご注意ください。
 冷静に考えるとこの話は熊太郎の自業自得の面が大きい。それでも他者の狡猾さに巻き込まれた不幸は同情の余地があるだろう。いや彼の生は自己正当化の繰り返しにすぎないかな。自殺間際に彼もそれに悟っている。でも読みはじめて違和感はあった。若い熊太郎の他者の前提がおかしいような気がしてならなかった。なぜ彼は自分を他人より思弁的だと主張するのかわからなかった。たしかに思弁性は高いと思うけど、彼は周囲の人々とそういう話をしていないだけではないのか。この小説の要点は、彼の言語観だろう。この言語観に囚われてしまってるのが問題ではないのか。自己を美化する(かっこつけたい)理由もこれがあるからだろう。
 そして読了後、感想を書いていて気づいてしまった。これはいわゆる思惟と言語の同一が前提されたソシュール以前の支配的な言語観だ。今さら気づいた。物語世界にはまってるとわからなかった。
 先人の知見を少し借りて当てはめてみる。熊太郎は一体何に躓いたのか。無論、彼の自分の都合しか考えてない行動が最大の問題なんだが。
 だが似た問題意識が私にもあるのだ。だから思いと言葉がバラバラで悩む彼は他人に思えなかった。
 話を熊太郎に戻す。

それだけを取ってみると、思考内容というのは、星雲のようなものだ。そこには何一つ輪郭のたしかなものはない。あらかじめ定立された観念はない。言語の出現以前には、判然としたものは何一つないのだ。
                                            『一般言語学講義』

 彼は思考内容に判然としたものがあると思い込んでしまっていた。確かに方言の制約はあっただろう。でも賭博の機微について精妙に彼は語れることもあった。ずっと思いと言葉をつなげる試みを諦めてしまったのが彼の誤りなんだろう。
 そう考えると、ラストで弥五郎に向かって自分の本当に思ってることを吐露するシーンは、言語活動の第一歩だったのか。悲しい場面だ。
 一方で彼の記憶が曖昧なことも重要だと思う。無自覚な信用できない語り手でもあるのだ。そうすると博打ばかりして楽して生きたいだけの彼にとって、言語観の悩みは自分に都合のいい言い訳の一つにすぎないのではないのか。
 だが自分のことしか考えない彼は私の似姿でもあるのだ。
 考えさせられる刺激が多い、傑作だと思う。